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にもかかわらず、のこと

西村佳哲

10-07-26 本を書きながら…

このところ、ワークショップとファシリテーションに関する本を書いていて、ようやく山頂が見えてきました。
今月中にあそこまで登りたい!

そんな中、以前書いた文章をいくつか訪ね直していて、本江正茂さんたちがまとめた「プロジェクト・ブック」に自分が寄稿していた、短いコラムに再会。(以下転載します)
            *

創造的(creative)であることと生産的(productive)であることは異なる。
CreateとMakeでは言葉の重みが違うように、創造は単なるモノづくりではない。しかし私たちには、その仕事を生産的に取り扱おうとする傾向がある。

その一例が、企業や大学の一角で見かける「コラボレーション・ルーム」だろう。
コラボレーションからも、創造性からもほど遠いあの部屋。問題は、壁面がすべてホワイトボードであることや、机の形が曲線を描いていることではない。部屋にその名前が与えられていること、「コラボレーション」があらかじめ露骨に求められていることが、そもそもことの本質を欠いているのだ。

成功したプロジェクトの歴史をさかのぼってみると、極めて主体的な力の発露を見かけることが出来る。
たまたま路上で出くわした二人が、そのままガードレールに腰掛けて二時間以上話し込んだとか。黒板のスペースが足りなくなって、そのまま横の壁に書きつづけたとか。

それが成功例であってもなくても、関わったメンバーが誇りを抱いているたぐいのプロジェクトはこうした逸話にこと欠かないし、メンバーは実にいきいきとそのエピソードを語る。
このワクワクする感覚は、いったいなんだろう。

コラボレーションの成否はおもに能力と能力、センスとセンス、つまり人と人の組み合わせや、そのタイミングに依存している。
場所やしつらえは、少し条件が不足しているぐらいでちょうどいい。コックピットのような高機能空間は、なすべき仕事がすべて決まっている時にデザインできる。しかし創造の創造たるゆえんは、そのなすべきなにかが、その場でつくり出される点にある。

小さな子どもは、なにもつくっていなくても十分に創造的だ。周囲の世界、あるいは自身の情動に対して目が覚めている状態、感応している人のありさまは、それだけですでに創造的だと思う。
また彼らは、足りないと感じれば、新しい遊びを自分でつくる。「プレイルーム」で遊ばせたいのは大人であって、子どもはどこででも遊ぶ。

夢とは「だから」見るものではなく「にもかかわらず」見るものであり、だからこそ尊い力なのだとミヒャエル・エンデは語った。創造をめぐる力もこれと同じだ。

ファシリテーションやコーチングの技術に注目が集まっているのは、創造性が、指示したところで得られるものではないこと、また計画的に用意できるものでもなく、人のコミュニケーション・スキルに依存する相互作用であることに人々が気づき始めているからだろう。
オフィス空間のデザインにしても、妙にお膳立てを整えるより、働き手の主体性を虚勢しない工夫を、無数にかさねたい。

「コラボレーション・ルーム」(ちなみにこの名称は某企業が既に商標登録している)の話に限らず、現在の日本は、創造的な仕事が生まれる条件をまるで満たしていないかのように見える。
大学のカリキュラムも、既にあるモノのつくり方や、既に確立された学問の探り方が大半で、これからつくるべきものをゼロから探るトレーニングを提供できている教師は多くない。そして社会はある程度安全で、ある程度満ち足りて過不足のない飽和感のただ中にいる。

…ということは逆に、「にもかかわらず」創造性が立ち上がる条件は整っているのだろうか。

生産はシステムの仕事だが、創造は人の仕事だ。それは特定の場所ではなく、人と人の関わり合いの中に生まれる。私たちはこの期におよんで、コミュニケーション・スキルの上達を求められているわけだが、世の中の通説は「最近の若い人たちは、表面的な人付き合いは如才なくこなすが、一歩踏み込んだ関わり合いに不慣れで、傷つきやすくへこみやすい」だ。
僕は若かった頃、大人による若者評はことごとく「はずれている」と感じたものだが、実際のところどうだろう。

            *

今はもうさすがにないか(「コラボレーション・ルーム」という名前の会議室がある会社)。
条件を整えすぎると、逆に萎えてしまうものがあるよね?、という話。

準備が出来ていないのに、突然始まってしまうこと。足りないけど、「にもかかわらず」やってみること。
そういう物事の方が、いのちが沢山含まれている。「自分をいかして生きる」に載せた石村由起子さんの逸話もそうだし、遠藤さんがコドモノカタチのインタビューで語らせてくれた話もそう(些細なことだけど、たとえばレゴではなくダイヤブロックのくだりも)。

小さな頃、夢中で読んだファンタジーの中に、ある男の子が親に頼まれて買い物に行って、その途中、不思議な大人と出会い、あるもの(魔法の国へ行く鍵のようなもの)をなぜか買うことになる。
のだけど、それを買ってしまうと頼まれていたお買い物のお金がなくなってしまう。どころかそのお金でも足りない。でも買ってしまって…という、この類の導入に出会った記憶がいくつかあるのだけど、現実の世界でも重要なことの大半は偶然起こるし、本人は「まだ準備が出来てない!」と思ったりする。
けど、そこがその時なんだよな。

…あれ。ファシリテーションの話から外れてしまったような、いや外れてないか…?

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