お爺ちゃん、こと松山金嶺さん

あまり話すことがないのだが、僕のお爺ちゃんはビリヤードの世界チャンピオンである。
松山金嶺という名前で、1917年、まだ船でゆくような時代にアメリカに渡り、1934年にスリークッションの世界チャンピオンになった。

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LIFEより 1950年とあるが1923か25年の間違いだと思う

先日、友人たちと韓国料理を食べていて突如その話になり、盛り上がった。
家に戻り、初めてウェブで検索してみたら、いくつかのページが出てきて驚いた。

中でも、以前からなんとなく聞いていた、金嶺さんが養子に出された家で9才の頃からビリヤードをはじめ(深夜に起きてこっそり撞いていたらしい)、14才の頃から自分より上手い人を探して国内を移動するようになり、韓国にも渡り、そしていよいよ19才(大正9年)でアメリカに渡る決心をした一連の経緯が書かれたページ(松山金嶺物語)に出会い、ああそんなことがあったのね、と感慨に耽ること小一時間。
 

ハスラーという響きにはギャンブラーの匂いが強く、お金持ちだったんじゃないかとか、遊んで暮らしていたのだろうと思うむきも多いかと思う。
が、上の物語を読むとわかるけど、若くして父親を亡くして伯父の家に預けられた、ただの小僧である。

ただ、とにかく球を撞くのが好きで、そして上手かったようだ。
ビリヤードを好きな国内の大人たちから大事にされるようになり、いろいろな場を得てゆくが、これ以上のことを学べる相手が日本にはいないと判断してアメリカへ向かった。

そして同じ頃、顔も知らないニューヨークの日本人事業家のもとへ嫁に出されていた大家族の末娘のお婆ちゃんと、彼女がいろんな経緯を経て働いていたマンハッタンの床屋さんで出会い、結ばれる。
世界チャンピオンになって、日本に戻り、下北沢の駅のそばにビリヤード松山を開く(この店は今は叔父さん一家が経営)。

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中央付近の小さな人が松山金嶺さん

成城学園前に素敵な一軒家を建てたようだが、戦争のドサクサで手放してしまったようだ。お金にはあまり執着がなく、ただ球を撞くのが好きだったらしい。
自分が牧野富太郎のような人に強く共感するのは、こうした背景というか、僕自身のOSに関連しているのかもしれない。
 

人はすぐ、お爺ちゃんのDNAがどうこうといった話をする。が、それ本当なんだろうか。

ただ自分という生き物が、今も、両親やその両親やそのまた両親がつくり出していた、ある空気感や振動(エネルギーと言ってもいいかな)を持った場の余韻の中にいて、その影響の中で自分を生きているのは間違いのないことだと思う。
 
松山金嶺さんは、うちの母が中学生の頃に死去。

お婆ちゃんが女手ひとつでビリヤード場を切り盛りしながら兄弟を育てる。鹿児島から東京の大学に出てきて、その店の常連客だったうちの父が、ビリヤード場の娘を好きになって、30才を過ぎて結婚を申込み、父35才の頃に自分が生まれた。

父もお爺ちゃんもお婆ちゃんも、もうこの世にはいないが、いなくなってもいるものだなあと思う。
 

by LW 2009/5/23

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