雑誌「リビングデザイン」vol.36(2004/7月号)から三号
コラム連載

西村佳哲(2004年7月〜)


『観察』(vol.36)

どんな時に自分は生き生きとするのだろう。会社に勤めていた頃、思うところあって考えていたら、「旅行中の自分が妙に生き生きとしている」ことに気づいた。

旅の最中は、いつもどこかで空模様を追いかけている。天気がその日の行動を大きく左右するから。
宿の部屋で目を覚ました瞬間、耳は外の様子をさぐる。道路の車は水音を立てていないか。雨粒は屋根を鳴らしていないか。いつもより大きくひろがった耳。そしていつもと違う匂い、空気の肌触り、異なる味覚の食事。いまここはどんな場所で、なにが起こりつつあるのかを察しようと、全身がしっかり目を覚ましている。もし五感に入力レベルのツマミがついていたら、それが全部「MAX」側に開いているような状態。

しかし、その調子で満員電車に乗るのはつらい。鼻をつまみこそしないものの、私たちはツマミを絞り、モードを不感側に切り替えて電車に乗る。そして、あまりお腹が空いてなくても昼休みになれば食事をとる。オフィスには空調がきいていて、夏はむしろ寒いぐらい。天気の移り変わりもほとんど気にならない。気がつくと外は夜。
そんな生活をかさねるうちに、いつの間にか生きている実感が希薄になってしまう、ということはないだろうか。

暮らしの豊かさは、五感を通じた感覚の豊かさと濃密につながっている。感覚を常に開いていればいいというわけではないし、感覚器の性能だけが問われる問題でもない。あらかじめ美しいものや素晴らしいものなど世の中のどこにもなくて、それを感じる心に美しさも素晴らしさも宿るのだから。
「生きていること」の実感は、まわりの世界との感応から生まれる。いまなにかを感じている自分を、まずは丁寧に感じること。
創造性の最初の姿は、一人一人の生き生きとした有り様にある。それは創作技法の習得よりも、草花の成長に見入ったり、鳥の声に耳を澄ませたり、人の話に共感するところからはじまると思うのだけど、どうでしょうか。◆

 - - - - - - - - - - 

『問い』(vol.37)

なにを食べるか、という話は随分よく話題にのぼるが、どう食べるかという話はそれほどでもない。玄米がどう、有機JASマークがどうしたこうした。
しかし食べ物の味や滋養は、食べ方ひとつで大きく変わる。スローフードを語るなら、スローイートについても語ってほしいところだが、同じことを仕事についても思う。どんな仕事をしたいではなく、その仕事を「どう働きたい」のか。

デザインの仕事をしていると言うと、「クリエイティブでいいですね」といった言葉を戻されることがある。しかし、あらかじめクリエイティブな仕事など、どこにもない。デザイナーといっても内実は様々で、実に生き生きとした仕事をしている人もいれば、ただ働いているだけといった感じの人もいる。
なにをしているかより、どうやっているかということの方が、大事ではないか。お茶を煎れることも、会議の資料を用意することも、子どものお弁当をつくることもかわらない。

自分はどう、それをするのか?
この部分を手放してしまうと、ただ働いているだけの存在になりかねない。むろん生きているだけで十分価値はあるのだが、「生き生きしている」という言葉が「生」を二度くりかえすように、私たちは、生きている上でさらにもう一度生き直すような瞬間を求める生き物ではないかと、僕は思う。

ところが、自分のあり方を問いなおす力を育むどころか、その芽を摘んでしまうようなかかわり方が、学校や家庭、そして会社を含む多くの現場で行われていないだろうか。
仕事や課題をこなす能力があり、場にも主体的に参加しているように見えて、実は適合性が高いだけの人。自分の問いを自分自身で立てる能力を、十分に育めずにいる人の存在を感じることがある。

それぞれの内面で生まれるささやかな実感を、どう育むのか。その力をつけるには、食べるとか話すとか、歩くとか、呼吸をするとか、無意識にこなしているあらゆる行為の中で、先のような問いを立ててみては?と思うのだけど、どうでしょうか。◆

 - - - - - - - - - - 

『察覚』(vol.38)

ある学会イベントでフロリダを訪ねた際、バスの中で小柄な日本人女性と隣り合った。彼女はジョージ・ルーカス率いるSFX工房・I.L.Mのクリエイティブ・マネージャーで、映画「ツイスター」のCG(コンピュータ・グラフィック)も担当したという。竜巻に巻かれて空を舞う牛が好きだと伝えると、そこは自分が手がけたカットの一つだと、制作の裏話をいくつか聞かせてくれた。

アニメや漫画のすごさは、それが隅々まで人の想像力だけで出来ている点にあると思う。
実写による映画の撮影現場では、突然雲が途切れて光が差し込んできたり、絶妙なタイミングで風が梢を揺らしたり、フィルムが神様の恵みを受けとる瞬間がある。しかしアニメや漫画では、こうしたすべてが“人”を介して顕現する。つくり手が想像しないかぎり風は吹かないし、重力もはたらかない。花は咲かないし、コーヒーの染みもひろがらない。
いいアニメを見るたびに、「よくまあ思い描いたよなあ」と思う。そして「ホントに!よくみているなー」と感心する。身の回りのあらゆる物事を。

たとえば「ツイスター」で、強風に揺れる森のCGプログラムをかく人。彼は樹というものを、そして風を熟知していなければならない。梢はどう揺れるのか、根はどのように張っているか。空気の中を、熱はどのように伝搬するのか。プログラマーの目はしだいに、自然界の成り立ちを見据えはじめる。成長する裏庭の芝生から一時も目が離せない。そんな日もあった、と彼女は語った。

極めて人工的なCGの表現が、ストイックな自然観察と、自然のデザイン原理への感動に支えられているという話。その姿は、古典絵画の画家のようだ。ものごとの成り立ちを見極め、真実を絵画に描く。人々はその絵を通じて、ごくあたり前の風景があたり前でもなんでもなく、劇的なバランスの上に成り立った奇跡であることを思い出す。
あらゆる表現の価値は、私たちが生きていることのものすごさに、もう一度気づかせてくれることにある、と僕は思う。◆

 - - - - - - - - - - 

『作物としての仕事』(vol.39)

音楽は「作物」である。
作家の駒沢敏器さんとの話で気づかされた。ミシシッピ流域の音楽、つまりブルースミュージックに造形の深い彼はそれを引き合いに、あらゆる音楽はその場所の自然や文化をまるごと土壌とする一種の農作物のようなものである、という話を聞かせてくれたのだ。まったくその通りだと思う。

南国の音楽は、わかりやすい一例かもしれない。
ハワイイ島で、ある家庭のホームパーティーに招かれる機会があった。島の人達は親戚同士のつき合いがとても豊かで、週末には誰かの家に集い、庭先で小さなパーティーを開く。スラッキーギターを弾き、歌い、女性達はフラを踊って、合間にチューニングをはさみながら進んでゆく幸せな時間。
耳を澄ますと音楽と同時に、遠い波音や、小鳥の鳴き声、渡る風があたりのヤシの葉をザワザワゆらす音が聴こえている。
どの音もまったく邪魔にならない。というよりこの島の音楽は、最初からそれらと一緒にあるのだ。屋外で生まれて、自然と合奏されながら育ってきた音楽なのだから。

農作物は、その場所の自然と、人の仕事による共同作業の結果として実を結ぶ。
ハワイの音楽は屋外の自然をその土壌に、人の手が加わってつくりだされたものだが、テクノやエレクトロニカのように、いわゆる自然環境からは離れて室内や人の頭の中で育まれた音楽もある。インダストリアルミュージックの土壌は、まさに近代の工業社会そのものだ。
いずれにせよ、そこには環境と人のコラボレーションがあり、あらゆる音楽は人の手を介した作物の一種なのだ。

ところで音楽に限らず、あらゆる仕事を「作物」として捉えてみると、どうだろう。
文房具や携帯電話、あるいは洋服や本。私たちがつくっているこれらのモノを、果物や野菜と同じ目で眺めるとどうか。トマトの味がしなくなったトマトに文句を言う人は多いが、同じく味のなくなった作物(仕事)が多いことについて、みんなどう思っているのだろう。

僕は噛むほどに味のする、実のつまった作物を食べたい。◆


All Right Resered. Copyright (C) Living World. 2002