雑誌「リンカラン」vol.4
特集“自分をつくる仕事”によせたエッセイ

自分の仕事をする
西村佳哲(2004年1月頃)


建築家になりたい人、環境教育のインタープリターになりたい人、ケーキ職人になりたい人。いろんな人がいると思いますが、「カフェ」といってもいろいろなカフェがあるように、同じ名前の職業でも、その内実は様々です。

私たちは、たとえばカフェオーナーになりたいわけでも飲食業に就きたいわけでもなく、自分なりのカフェをつくりたい。自分ならではの居心地をつくり出したい。単に何かになりたいというより、「自分なりの」何かになりたいのではないか。言い切ってしまうと、作家になるのでも園芸家になるのでもなく、「自分になる」ということ。自分が、他でもない自分自身であることによって価値が生まれる。そんなことを仕事にしてゆきたいし、そういう人が一人でも多い方がいいと、僕は思います。


昨年、『自分の仕事をつくる』という本を書きました。柳宗理さんや米国パタゴニア社、ヨーガン・レールさんや富ヶ谷のパン屋「ルヴァン」の甲田幹夫さんなど、モノづくりにたずさわる様々な方の仕事場へ、彼らの働き方をたずねてまわった、小さな報告書のような本です。

「いい仕事」は、他の仕事といったい何が違うのだろう。なにかこう手放せない感じがして、いつまでも手にしてしまう。目が離せなくなる。暖かみが感じられていつの間にか口元が緩んでいる、そんなモノゴトが僕にとっての「いい仕事」です。その違いは、なにから生まれているのだろう? それは「働き方」の中にあるんじゃないか。違う結果が生まれる時、そこには同時にやり方の違いがあるものです。であるなら、あの食器は誰がどんな場所で、どんな働き方を通じて? あの映画は、どんな人たちが、どんなコミュニケーションの中から? こうした興味がある時沸点に達し、気になるモノづくりの現場をたずね、働き方の話を聞いてまわる作業を他の仕事のかたわら始めました。


自分を失わずに働く

取材を通じて得たこと・学んだことは多々あります。が、中でも大きかったのは、彼らが「自分の仕事をしている」という一点において、例外なく共通していることへの気づきでした。請負の仕事はしないといった話ではありません。注文を受けてサーフボードを削っている人も、メーカーとしてプラモデルをつくっている人たちも、彼らは他の誰でもない「自分の仕事」をしていました。誰一人として、「他の人にまかせても構わない」ような仕事はしていなかった。

モノづくりに携わる人にとって、他人と違う結果を出すことは、欠かせない条件です。それが存在価値でもある。しかしこの「自分にしか出来ない仕事をする」ことの大切さは、デザイナーやモノづくりの担い手などに限られる、特殊な話ではないと僕は思うのです。


たとえば総務部で働く事務職の女性や、バスの運転手、あるいは宅急便の配達員さん。彼らの仕事は、いわゆるクリエイティブな仕事ではない、と思われがちかもしれない。しかし、明らかに他の人と違う輝きを放っている人はいます。彼らに共通しているのは、やはり「その人だから意味がある」「他の誰にも肩代わりのできない」働き方をしていることだと思う。仕事そのものは会社から与えられたものでも、それを「どうやるか」は自分で考え・選択している。結果として他人事のような仕事でなく、その人自身の「自分の仕事」になっている。クリエイティビティ(創造性)とは、仕事の内容より、むしろそのやり方について問われるものなのかもしれません。

私たちのまわりにあるのは、テーブルの上のカップも、その中の紅茶も、聴こえてくる音楽も窓の外の街路樹も、どれも誰かがつくったものです。誰かの仕事の結果です。私たちはたくさんの他人の「仕事」に囲まれて生きている。そして直接的にであれ間接的にであれ、仕事を通じて誰かに接し、接されている。仕事とはそれを通じて人と関わり合うことです。であるなら、他の誰がやっても構わないような仕事より、顔の見える、その人自身が感じられる仕事が多い方が豊かで面白い。

その人自身がまるで感じられない人に、時々出会います。特に会社で働いている人の中に、少なくないかもしれない。自分自身の意見を、なかなか言わない人。自分で判断しようとしない。「いまアレが流行っているから」とか「前例がない」とか、自分自身がどう考え・感じているかを口にする前に、他人事の話を始めがち。自分自身を表に現さないものだから、向かい合っている人は寂しくなる。目の前にいるにもかかわらず、そこにいない感じがするから。人を一軒の家のように見立てると、まるで空き家のよう。住人は留守がちで、時々呼び鈴を鳴らしても誰も出てこない。そういう人と仕事をしていると、あたりに無力感が漂い始める。また彼らの仕事には、その人同様の空気が漂っていて、どこか白々しい。


仕事は、自分を社会の中に位置づけてくれる重要なメディアです。もし金銭的な不自由がまったくなくなっても、多くの人はなんらかの仕事をしたいと望むでしょう。ヒポクラテスは、人を癒し健康にする柱のひとつに、「仕事を与える」ことをあげていたといいます。私たちは、自分が存在することの意味や価値、存在していいんだという自己肯定感の多くを、仕事を通じて実感している。実感することができる。

しかし、もし自分自身を手放して、他の誰がやっても構わないような働き方を選んでしまったら、仕事を通じて得られるのは単に義務的・能力的な達成感と収入に特化されてしまう。そして仕事は、単なる労苦に転じてしまいかねません。


好きなことを仕事に?

働き方研究を通じて出会った人たちは、誰もが自分という家に、しっかりと住んでいるように感じられました。家には十分に手が入っていて、日々どこかがすこしづつ変化している。増改築を重ねながら、成長をつづけている。そして彼らの仕事の結果からも、同じような充実感や暖かさが感じられた。
好きこそものの上手なれ、と言います。実際そうだと思う。しかし、もし僕が取材した彼らに、「好きなことを仕事にできていいですね」なんて言ったら、当惑するでしょう。もちろん本人が好きなこと、いい意味で馬鹿みたいにやれることから仕事が広がっているのは、間違いのないことです。が、「好き」というだけでは、大事なニュアンスが欠けているように思う。そこには同時に、その人ならではの責任感や使命感のようなものが、含まれていると思うのです。


小学生や中学生が相手なら、「好きなことを仕事にしよう」というメッセージもいいでしょう。入口に過ぎないにしても、何よりも探り始めることに尊い価値があるから。でも、もう少し年上の人たちには単に好きなことより、「私がやらなかったら誰がやる?」と思えることを探ってみて欲しいと思う。たとえば映画を観て、「ああ面白かった!」という以上の想いがなにも残らなかったら、それはその仕事についてはお客様だということです。つくる側でなく、受けとる側でよいと自分が判断しているということ。その逆に、雑誌の記事を読んだり新譜を聴いたり、あるいは人の有り様や生き様を垣間見て、わけもなく悔しさを感じたり、なにかこうザワザワした気持ちが生まれたら、その辺りに宝物があるのだと思う。掘り下げてみると、そこに「自分の仕事」があるんじゃないだろうか。

悩みや葛藤のような感情は、「こうでありたい自分」(理想)と「未だそうでない自分」(現実)の落差から生まれます。この落差は、可能性でもある。まだ先があるから悩めるわけで、その奥に一人一人の鉱脈があるのではないか。あとはそれを掘り出すために、あらゆる努力を楽しむだけじゃないか。

みんなが一つしかない頂点や、他人との競争における勝ち組を目指すのではなく、自分ならではの仕事を重ねて広がりのある裾野を闊歩すること。「ほかの人には任せられない」という想いがともにある時、お茶をいれることも、花束をつくることも、企画書を書き上げることも、どんなことでも全世界を代表する、かけがえのない仕事になる。ひとりひとりが充実感を糧に、他の誰でもない自分の仕事をすることが、社会の多様性や豊かさをも形づくると思うのです。◆

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