自分が感じていることを感じる

先日文庫になった「自分の仕事をつくる」の、二冊目の原稿を、先週末ほぼ書き終えた。

なんだか三縲恷l年かかったな。時間をかけて丁寧に…という話ではなくて、途中まで書いて、読み返すとつまらなくて(普段書いているメールの方がよっぽど面白い!とか思ったりして)、とりあえず別の仕事をしているうちに何を書いていたのかまんまと忘れて、数ヶ月後にまたいちから書き直す…ということをくり返していた。

ようやく、自分が読んでも面白いものが姿をあらわしてきたので、順調にゆけば、秋口には書店に並ぶんじゃないかと思う。
 

福田さんという元デザイナーの友人が、「いい仕事が出来た時は、つくったものをいつまでも見てられるので、それでわかるんです」と以前話していた。
この話、僕も共感できる。いま手元にある自分の草稿も、変な話だけど何度も読める。こう書くと少し恥ずかしいけど、愛おしさがある。こうなってくると、いい感じだ。

自分がつくったにも関わらず、飽きもせずにしげしげ眺められるような時、それはつくったものというより、なんか生まれてきたというか、あらわれたものという感じの方が近い。

子どもを身籠もった時に「できちゃった」という言葉が使われることがあるが、できるとは「出て来る」ということか。

人の中に、なにかが「出て来る」ような奥行きをもった世界があると考えると、わたしたちは一人ひとりがその出入り口のようなもので、ドアが歩いたり、窓が音楽を聴いたり、泣いたり喧嘩したりしている、と考えるとなんだか微笑ましい。
 

この二冊目の本は、インタビューは2本だけ。その一人は杉並区・永福町で家族と黒森庵というお蕎麦屋さんをやっている、加藤晴之さんという人だ。

今日、近所に住んでいる友人を誘って蕎麦を食べにゆき、加藤さんにも原稿を渡してきた。
約二週間ぶりの蕎麦はとても美味しかった。
みなさん、このお店、ぜひ!行ってみてください(永福町駅の改札で巣作り真っ最中のツバメもご覧ください)。次の本を読むと行ってみたくなる人、多いんじゃないかな…。とてもいい店だし、魅力的な人です。
 

加藤さんについて詳しくは本に譲るとして、一緒に蕎麦を食べた友人と、今日はBGMの話をした。
バットマンの「ダークナイト」におけるサウンドデザインが秀逸である、というのがその発端。あの映画はBGMを最小限に抑え、映画の中のひとつひとつの音の効果を最大化している。(映画の音はとても面白いテーマで、そういえば以前もこんなことを書いた)

ところで日本では、ほぼすべての飲食店でBGMが流れている。BGMがかかっていない店に足を踏み入れると、「まだ開店前?」と思わず遠慮してしまうほど、僕らはお店のBGMをごくあたり前に受け入れている。

しかし海外に行くとこれは珍しいことだ。とくにヨーロッパでは、生演奏ならまだしも(あるいはインド料理などのお店は例外として)、BGMをかける店は圧倒的に少ないと思う。

地方に行くと、日本ではアーケードばかりか、青空の下の街灯のスピーカーからも音楽が流れていることが多く、このBGM好きはいったいなんだろう?と思う。
自動ドア好きにも通じるなにかが、日本人の中にあるような。
 

BGMは気分をつくる。誰かが意図的にチューンナップしている空間の中で、わたしたちはどれぐらい、わたしたち自身なんだろう。

僕はここ20年ほどテレビを見ていない。以前からあまり見ないヤツだったが、決定的に見なくなったのは1995年の阪神大震災の時、ある民放の時事番組が被災地の映像にBGMをつけて流していたのに出くわしてからだ。
もうついていけないと思った。

自分が感じていることを、感じているように感じたい。
 

by LW 2009/5/15

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